ざさいたま
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第二章 儀式の図面的解釈

はじめに

第一節 儀式書

第二節 御仏名


第三節 追儺

 追儺は中国の大儺が日本に伝えられもので、悪疫などの災いを避けるための年中行事である。大儺が追儺となったのは明らかでないが、清和天皇の時代頃に追儺と呼ばれるようになったと考えられている。儀礼は一般的に大晦日亥の刻に始まり公卿等が紫宸殿に参入し陰陽寮の官人が桃弓・葦矢を公卿に配布し天皇が御簾の中に出御、四つ目の面をつけ桙と盾をもった方相氏が侲子を率いて参入、饗が設けられた後方相氏が大声を発し方相氏に続いて王卿・群臣が悪疫を駆逐した。『政事要略』に方相氏の風体を伝える図30)・侲子の図31)・悪疫の図32)が掲載されている。追儺は平安中期頃になると紫宸殿に限らず貴族の邸宅などでも実施されるようになった。平安末期頃になると異様な方相氏が鬼と勘違いされ、方相氏を追い出すように演出されるようになる。主に紫宸殿・清凉殿で行われた追儺を検討の対象とし有職書等からどれだけ追儺の動きを再現でき尚かつ追儺から読み解ける紫宸殿・清凉殿の働きも考察したい。
(方相氏) (悪疫) (侲子)

統合した儀式次第

 三有職書と『儀式』を統合して内容の違いと儀式の様子がわかる表を作成した。表に書かれている部分はすべて書き下し文に改めた。〔 〕で囲まれている部分は割注、空欄は該当記事が無いことを示している。原文は巻末資料参照。

統合した儀式次第 追儺

場所等

 紫宸殿・紫宸殿及び南庭で執り行われる。御仏名のように調度を設置するなどの指定は無いが、儀式を執り行う時に新たに儺(悪疫等)が入らないように承明門は開けても建礼門を閉ざすことが規定されている。『雲図抄』では簡単な説明と分配の文の様式が掲載されているのみで具体的な図面は見られない。『雲図抄』によるヒントに依らないで文章から儀式空間を再現する必要がある。
 儺を追い払う時に用いる桃弓は神話と関連している。桃は鬼を追い払う時に有効な木であると考えられ追儺でも同様に桃弓が用いられた。天皇は儀式に直接参加することは無く紫宸殿で儀式の様子を観覧する。場合によっては天皇が紫宸殿に出御しないこともある。

期間

 大晦日一日限りで儀式は亥の刻より始まる。一年の締めくくりを担う儀式である。

儀式の構成員

 追儺の場合不確定な要素が多いために構成員を正確に把握することは困難であるが、必要となる構成員を推測してみた。構成員は以下のようになる。
 方相氏 一名
 侲子 八名程度
 闈司 若干名
 王卿 若干名
 内舎人 四人
 大舎人 五名
 陰陽師 若干名
 斎朗 若干名

儀式の構成

 追儺では次第を明確に分離することができない部分がある。そのため儀式の構成の検討を行い次に解釈を試みる必要がある。
 儀礼前の諸手続である分配が行われ、桃弓が公卿等に配布される。通常は次に天皇が紫宸殿に出御、所司が承明門を開門、王卿が座より立席し承明門の壇上に着座、陰陽師が桃弓を闈司に配布、方相氏が侲子を率いて参入、饗が設けられる。全体を見失うことなく特徴を摑むには参入の部分において重要な要素を切り出しそれ以外の参入部分を参入した。参入部分も役柄によって参入のタイミングが異なることからどの立場かを明確にするために「参入」の前に役柄を付す方法を採った。
 以上のことをふまえ統合した表から追儺の構成をまとめると以下のようになる。
 A分配-B桃弓一-(E出御)-D開門-F公卿参入-C桃弓二-G方相等参入-(Ha饗)-I祭文-(Hb撤饗)-J追儺-K退出
 A分配 分配の文が中務省から公卿等に回される。
 B桃弓一 陰陽寮の役人が公卿に追儺に使う桃弓等を配る。
 C桃弓二 陰陽寮の役人が闈司に追儺に使う桃弓等を配る。
 D開門 承明門が開かれる。
 E出御 天皇が紫宸殿に出御する。
 F公卿参入 公卿が参入する。
 G方相等参入 方相及び侲子が参入する。
 Ha饗 方相に饗がふるまわれる。
 Hb撤饗 饗が終了する。
 I祭文 祭文が読み上げられる。
 J追儺 儀式の中核部分である。
 K退出 追儺が終わり儀礼が終了する。
 括弧された項目は有職書のよって揺れがある項目である。

重要な要素

 統合した表から重要な要素を抜き出し動作を追う上で特徴的な項目に関しては説明を加えた。

A分配

・中務省分配の文をもって内侍所に付す
 『江家次第』では「近代然らず」とある。分配の文とは、担当の一覧表である。
・亥一刻中務丞諸門の分配の簡を奉る
・上卿之を見参議に下す
・参議見侍従の座に下す
・侍従見了り返上す
・上卿給丞に返す
 中務省の役人が分配の文を上卿に奉る。上卿がこれを参議へ、参議がこれを侍従へ、侍従がこれを上卿に返し中務省の役人のもとへと戻す。ここでは分配の文がどのようにして伝達されるかが問題となっており、細かい動作などは規定されていない。分配の文の伝送経路を図示する場合、上卿の位置、参議の位置は推測できるとしても中務省の役人等の位置と伝送する経路を推定する根拠がなく図示することは難しい。

B桃弓一

・陰陽寮の弓・葦矢を以て上卿以下に進む
 陰陽寮の役人が追儺の儀礼に使う鬼追に効果があると考えられている桃弓と葦矢を携え上卿に配る。

E出御

・内侍南殿に渡る
 追儺を観覧するために天皇が紫宸殿に出御する。出御は本来重要なことである筈だが『江家次第』が書かれた平安末期頃になると出御は必須ではなくなる。このことに関しては後述したい。

D開門

・所司承明門を開く
 南殿南に位置する承明門が開かれる。但し、承明門の次の門である建礼門を閉ざす。三有職書に共通してみられる。尚、夜間は宮中の門は原則として閉ざされている。

F公卿参入

・王卿座に起つ
 桃弓・葦矢を携えた公卿が陣の座より次に承明門の巽の壇上に向かう。承明門を開いたことは公卿参入のためかと受け止めてしまうが、陣の座から承明門の壇上に向かうのに一度内裏の外に出て改めて承明門を経由することは不自然である。儀式書の常として門を経由する時は明記されている筈である。この場合内裏の外に出ず内裏内の道を使い承明門に至ったと考えられる。

C桃弓二

・陰陽寮同壇上において桃弓・葦矢闈司に授く
 ここでも配布するのは陰陽寮の役人である。

G方相等参入

・方相侲子を率い参入す
 方相氏が侲子を率いて版南三丈に参入する。版とは目印のための札のことで、南庭では中心付近にあったと考えられ南はその版がおいてある位置より南を意味し、一丈約三メートルであることから三丈では九メートル、つまり版が置いてある位置から南の方向に九メートル後ろに方相氏以下が並ぶ。

Ha饗

・陰陽寮下部八人饗方相に給う
 安福殿から月華門を経由し南庭に至る。
 ここでも陰陽寮の役人が雑用をこなすことになっている。御仏名ではこれに変わる役を蔵人乃至堂童子が執り行うことになっていた。この饗宴は方相氏が鬼と勘違いされるようになると見られなくなって来る。鬼である場合は饗を開かなくてもよいわけだ。また、「安福殿、より出給う、初は月華門より入る」から儀式の場所は南殿ではなく清凉殿で執り行われたことがわかる。『雲図抄』を見ても明らかであり清凉殿で執り行われる場合はわざわざ紫宸殿に出御する必要が無いわけである。
 三有職書には見られないが、儀式ではこの饗に何が用意されたかがわかる。
「其の料五色薄絁各一尺二寸、飯一斗、酒一斗、脯・醢・堅魚・鰒・乾魚各一斤、海藻五斤、塩五斤、柏廿把、食薦五枚、匏二柄、缶二口、陶鉢六口、松明五把、祝料当色袍一領、袴一腰、」
 用意されるものでわかりにくいものは、五色薄絁だ。は真綿で織った光沢が無い織物の意でこの後に列挙されているものが食物であるために料理を敷く敷物であると取れるが詳細はわからない。は魚もしくは鳥獣の干物でこの場合乾魚があるので鳥獣の干物である。は味噌に似た食品である。は鰹のことであるがおそらく乾燥させるなどの防腐処理が行われた筈である。も同様な処理が行われたと考えられる。は食膳の下に敷く敷物である、は瓢箪の一種である。このように饗では様々なものが用意された。追儺の饗は『江家次第』がかかれた頃、平安末期になると行われなくなってしまう。御仏名では酒宴に何を用意するかに関心があった貴族たちであるが、追儺では饗が執り行われなくなると過去に何を用意するかを書き残す必要は無かったのではないだろうか。
 ここまでの動きを図示すると次のようになる。赤が陰陽師、紫が公卿である。移動を示す線の始点は○で示している。
(図参照)

I祭文

・陰陽師斎朗を率い月華門より入る
・版に立ち呪を読む
 祭文は儀式によると。以下のようなものである。
 「其詞曰く、今年今月今日今時、時上直符、時上直事、一人一事、時下直符、時下直事及山川禁気、江河谿壑、二十四君、千二百官、兵馬九千万人、」
 方相氏にふるまわれる饗がなくなっても祭文の部分が残ったことは、三有職書に共通して見られることからも想像に難くない。祭文の部分は饗の一部分であると考えられるが饗が執り行われなくなっても三有職書に残ることから独立した要素であるといえる。

Hb撤饗

・饗を撤す
 陰陽寮の役人が饗宴の後片付けを行う。

J追儺

・方相先に儺声を作す
・戈を以て楯を叩く三箇度
・群臣相承和し呼び之を追う
 方相氏の動作に従い群臣がこれに従う。儀式ではここで以下の文章が陰陽師によって読み上げられる。
 「大宮内爾神祇官・宮主能伊波比奉里、敬奉留、天地能諸御神等波、平爾於太比爾伊麻佐布倍志登申、事別天詔久、穢久悪伎疫鬼能、所所村村爾、蔵里隠布留乎波、千里千里之外、四方之堺、東方陸奥、西方遠値嘉、南方土佐、北方佐渡与里乎知能所乎、奈牟多知疫鬼之往加登定賜比行賜氐、五色宝物・海山能種種味物乎給氐、罷賜移賜布所所方方爾、急氐罷往登追給爾、姧心を挟み氐留里加久良波、大儺公・小儺公五兵を持ち追走す、刑殺会登聞食登詔す、」
 この呪文は大儺公である方相氏が疫鬼を刑殺するという内容で、いわば疫鬼を脅す文章である。方相氏が鬼であった場合は読み上げられない。当然呪文の内容は三有職書では見られない。儀式が書かれた年代とこの呪文が宣命体で書かれていることから方相氏が鬼へと転化される以前にも既に中国の儀礼が日本化していたといえる。
・方相明義・仙華門を経北廊の戸を出で上卿以下方相の後に随い御前に度す
 『江家次第』以外には見えない項目である。方相氏は鬼であるため群臣が方相氏を追いまわす演出をする。
・殿上人長橋の内に於いて方相を射す
 方相氏が射られ退治される。方相氏と群臣の動きを図示すると次頁のようになる。
(図参照)

K退出

・還御の時、扈従人最前逢方相に行し忌す
 『西宮記』には「分配人人方相の後に従い、御前を度し而るに出る。〔近例、分配に依らず、皆御前を度し退出するなり。〕」とあり方相氏の後に従い御前を通過し退出することがわかる。

まとめ

 追儺では儀式中多くの人が動くものの移動経路を特定すること難しい。たとえば分配の文の伝送経路を図示する場合、上卿の位置、参議の位置は推測できるとしても中務省の役人などの位置、伝送する経路を推定する根拠がなく図示することは難しい。さらに方相氏が鬼に転化する以後と以前では儀式を執り行う空間自体が変化する。図面を用いた儀式解釈を行う場合の限界がある。
 追儺に於いても饗は設けられた。この饗は『江家次第』が書かれた頃になると行われなくなってしまう。御仏名の酒宴に何を用意するかに関心があった貴族たちであるが、饗が執り行われなくなると何を用意するかを書き残す必要は無かったと考えられる。また、出御は必須ではなくなる。清凉殿で追儺が執り行われた場合天皇は、紫宸殿に出御する必要は無いことは紫宸殿自体の役割が大きく変化したためと考えられる。古瀬奈津子氏が主張するように儀式は天皇が執り行う政務の中核的要素であり、その空間が嘗て大極殿から内裏、主に紫宸殿へ移行し紫宸殿からさらに清凉殿に移行した。しかし、一部の儀式は清凉殿には移行せず引き続き大極殿にて執り行われた。紫宸殿で引き続き執り行われた行事の多くは追儺も含め国家的に特に重要な行事であるといえる。追儺も方相氏が鬼になると、清凉殿で執り行われるようになったことが『雲図抄』の文章からわかる。大極殿から紫宸殿、紫宸殿から清凉殿と儀式空間が移動したことは同時に権力が表される空間も大極殿から紫宸殿、紫宸殿から清凉殿へと移行したといえる。図面的な解釈を用いずとも導き出せることであるが、図面的な解釈を行うことではっきりとした形で読み取ることができる。
 追儺の構成要素のうち桃弓一・桃弓二・饗・祭文・撤饗・追儺等多くの部分で陰陽師が登場し重要な働きをしている。御仏名では蔵人・堂童子が執り行ってもよいようなところを追儺では陰陽師が事にあたっているのである。追儺は国家的に重要なものであったために蔵人等の天皇の私的な機関が執り行うのではなく陰陽師等の国家行政機関が執り行ったと考えれば自然ではある。しかし、儀式が行われた場が紫宸殿から清凉殿に移行すると本来国家的なものであったはずの追儺も次第に私的な正確を帯びるようになり、陰陽師が役にあたる形だけが取り残されたといえるのではなかろうか。大儺が追儺と変化することで儀式が日本化されたとするのが通説であるが、それ以前に大儺が日本化されていることがいえるのではないだろうか。『儀式』が書かれた年代と大儺の呪文が宣命体で書かれていることから、方相氏が鬼へと転化される以前にも既に中国儀礼の日本化への萌芽があったといえる。
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