ざさいたま
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第一章 内裏の復元

はじめに

 内裏はその時代に合わせ遷都のたびに新たに作り替えられた。都が平安京に定まり、内裏は一応の完成を見る。しかし、律令国家の衰退と共にその維持が困難になり、貴族の私邸を皇居としたいわゆる里内裏に取って代わられる。こうした里内裏は戦乱・火災などにより構造的にも政治的にも変化し、平安時代のそれとは乖離する。現在に残る京都御所は土御門御所と呼ばれた里内裏で、江戸時代に再建されたものである。それにも拘わらず、平安内裏のおもかげを伝えているのは江戸時代に復古の機運が高まり、結実した結果である。しかし、政治的な問題、財政的な問題から平安時代のそのままを復元することは出来なかった。
 本章では京都御所の造営に携わった江戸時代の有職家の生涯とその著作について一考を試み、江戸時代にそのままを復元することがかなわなかった平安内裏をコンピュータを活用し図面上で復元を試みる。天皇の私的な空間で有ると共に、公的な政治の空間である内裏を復元することは、摑みがたい儀式の世界、平安時代の貴族の思考を探るには有用である。

第一節 裏松光世

裏松光世と『大内裏図考証』

 裏松光世は『大内裏図考証』を著した江戸時代の有職家である。『大内裏図考証』はそれまで儀式作法中心に語られた内裏の様子を、文章だけでなく過去に残された指図を集成し、図面についての解説を附したものである。全三〇巻、天明八年(一七八八)に成立したと考えられ後に、内藤広前が補訂した。『雲図抄』『西宮記』『北山抄』『江家次第』『山槐記』『北山縁起』などを総合し、内裏の様子を体系的にまとめ上げている。『大内裏図考証』は現在、『故実叢書』1)中に全三〇巻が『大内裏図考証』第一・同第二・同第三とされている。他に、今日すべてが残っているわけではないが、皇居変遷に関する史料をまとめた『皇居年表』2)や具体的な宮中儀式を取り上げた『入内雑事抄』『立后雑事抄』『新嘗祭雑事抄』『遷幸雑事抄』『宣旨雑事抄』『遷幸新造内裏次第』を著している3)

光世のおいたち

 光世の生涯は宝暦事件に連座し謹慎処分となることを境にして二つに分ける事ができる。謹慎処分となるまでをまとめると以下のようになる。元文元年(一七三六)に生まれる。父の烏丸光4)5)は歌道の家計に属し早くから才能を発揮し、古今伝授を桜町天皇から受け、当時の職仁親王に伊勢物語を伝進するなど当代の文化人であったという5)。このときにすでに光世の下地はできあがっていた。
(系図参照)
 裏松家の養子になり益光卿の子になると、十四歳で元服し昇殿を許され左兵衛佐に任じられた。宝暦年間にはいると弁官、蔵人に補せられ、順調に貴族としての出世したようにみえた。

宝暦事件

 宝暦事件は新潟の出身の医者竹内式部が起こした事件である。式部は上京し徳大寺家に仕え、儒学・神学を学び当時の公家とも交友を持っていた。垂加神道の信奉から幕府を否定し尊王思想にすすんだ。
 宝暦事件は二回ある。第一回目のは宝暦六年(一七五六)、式部が公家に軍学武術を講じているとの風説から奉行所に呼び出され取り調べを受けた6)。このときは事実無根としてことなきを得る。
 第二回目の事件は宝暦八年(一七五八)の事件7)である。式部に教えを請う公卿が増加しことは、憂慮すべき方向に移る虞があった。関白らは事態の収拾を図る。式部以下大量の公卿の処分を断行した8)。光世は既に一回目の事件のとき「式部門弟」とされ、宝暦七年(一七五七)に式部の講義を進講してはならないと禁止9)が出されていた。一回目の事件以後光世と式部との関係は詳しくは判らないものの、これらのことをふまえると二人の関係は何らかの形であったと考えるのが自然だ。この事件により光世を含む関係者が悉く処分された。式部は宝暦八年(一七五八)九月五日に京都から追放となる10)

蟄居後の光世

 蟄居後、皇居をおもい有職故実の造詣を深めたことが知られる。『大内裏図考証』の構想ができあがった時期は、詫間直樹氏が詳細にまとめられている11)。氏の説によると『無仏齋手簡集』寛政四年(一七九二)五月廿日付け書状により、明和二・三年(一七六五・六)頃に当時高橋宗直の紫宸殿・清涼殿の図とその考証に触発され、それが内裏全体に及んでないことから内裏全域に亘る考証作業を思い立ったようである。
 処分が、宝暦八年(一七五八)外出の許しがおりるのは、安永七年(一七七八)、天明八年(一七八八)には参内の仰せがあった。再び参内を許されるまで三十年の時を要すことになった。同年正月に起きた内裏炎上による新内裏造営の諮問のためであった。応仁の乱後、度々内裏は焼亡しその都度造営され、数回に亘る内裏の焼亡はその形態を徐徐に変化させた。光格天皇より造営を命じられていた松平定信12)は、光世の故実に関する造詣を聞き及んでおり、古式に則る内裏造営を行うためであった。光代は内裏炎上事件によって活躍の場を与えられた。内裏は寛政二年(一七九〇)に落成した13)
 その後、寛政十年(一七九八)に落飾して固禪と名乗る。『大内裏図考証』による功績で生涯に亘り三十金の下賜を受けた。文化元年(一八〇四)七月二六日に卒去し、従三位実長卿の末子である養子謙光14)に家督を嗣がせた。

近年における光世の研究

 『大内裏図考証』は一度献呈された後も修正・加筆が加えられ続けたことが知られている。近年にめざましい研究成果が見られたので紹介しておきたい。石村貞吉氏が『大内裏図考証と大内裏』15)で宝暦事件を中心にした光世の生涯と『大内裏図考証』の編纂課程を論じている。これによると『故実叢書』に収められている『大内裏図考証』は光世が著したそのままではなく、後尾張候の命により、内藤弘前が補訂したものを刊行したものである。校訂者の内藤弘前は和学講談所の出役であり、考証の中の指図は断片的であることを嘆いて内裏図・中和院図・神祇官図・真言院図・太政官図・武徳殿図・八省院図・豊楽院図・大学寮図・京城略図の九図を『大内裏図考証』を元にして作成したことが判っている16)。『大内裏図考証』は様々なバリエーションがある。文政の頃、尾州候が裏松家の『大内裏図考証』の板を購入したことが『古学小伝』によって伝えられているが、その板の存在は明らかでなく、『故実叢書』に載る『大内裏図考証』についても序文の異同がありまた九条家蔵の大内裏全図の比較を行っても底本となるものを探ることができなかったとう。石村氏の問題提起に西井芳子氏は『裏松固禅の自筆遺稿 主として大内裏図考証と皇居年表について』で実地踏査を試み、光世の自筆本17)が新たに宮内庁書陵部だけでなく、東京大学史料編纂所に未整理史料として紙袋に収められていたことを突き止めた。福田敏明氏は『寛政九年献上の大内裏図考証ついて』において清書目録など様々な方面から検討を行った結果、宮内庁書陵部に納められている本は寛政九年献上の『大内裏図考証』であると比定できるとしている。
 現在発見されている光世の自筆本はいずれもどこか欠けているもので、今後すべて発見されるということはおそらく無いが、西井氏の様に思わぬ発見があるかもしれない。

第二節 コンピュータを用いた内裏図の作成

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